三田藩の家老職であった白洲退蔵の孫、白洲次郎の父「文平」は神戸で綿貿易を生業とする白洲商店で大きな商いをしていました。白洲商店で設けた大金で次郎はイギリス留学が出来たのです。また文平は日露戦争の勝利のときは同じ電車に乗り合わせた人々に振る舞い酒を...
11日前
母子地区を訪ねて美しいお茶畑を目にした人は多いと思います。母子大池の周りでもたくさんお茶畑を見ることが出来ます。母子茶は今から600年位前に永澤寺(ようたくじ)の開祖である通幻禅師が中国から持ち込んだと言われています。当初は宇治茶などのブレンドを...
11日前
三田の北端にある母子大池は人工の池としては青野ダムの千丈寺湖に次いで2番目の大きさですがため池としては三田で最大です。 母子大池は標高400mにありますが目的は母子地区の田畑のためではなくもっと南にある広野地区の田畑のために作られたものです。...
11日前
丹波篠山市に接する三田の北端海抜約500Mの高地に位置する母子地区は何故母子という名前になったのでしょうか。母子を「もうし」と読むことが難しい難読名称でもありますね。 今の母子地区は奈良時代は鷹原(たかのはら)と呼ばれていたそうです。この地区を...
22日前
何故我々の街に「三田」(さんだ)という名前が付いたのか諸説ありますがそのなかのひとつを紹介したいと思います。三田は奈良時代に建立された金心寺の門前町として栄えましたが戦国時代に金心寺の弥勒菩薩を戦乱から守るために三田御池(今の三田小学校の所)に沈...
22日前
三田藩の石高は3万6千石でしたがそのうち6千石は三田ではなく飛び地として丹波にあったのです。三田藩はこの飛び地の管理のために代官所を設けて管理をしていました。いまでも丹波には三田藩の代官所跡が残っています。この土地で収穫した6千石の米はどのように...
23日前
今の時代はスマホや携帯電話など多くの便利な通信手段がありますが江戸時代先人たちは如何にして最新の情報を得ていたのか考えたことがありますか。米の相場は大阪の堂島で開かれていましたがその相場を知るために三田の豪商(屋号内神屋・神田惣兵衛など)は旗振山...
23日前
六甲山の山頂にある六甲小学校は神戸市の子供なら誰でも入学できる特別な小学校ですが実はここは九鬼家の別荘があった場所なんです。新聞でも早くストーブを入れる学校として度々紹介されますよね。明治初期九鬼隆義は三田から神戸に移り花隈に住居を構えましたが六...
26日前
法務局から三田小学校に上がっていく道の左側にある屋敷町に凛として兵庫県指定重要有形文化財である「旧九鬼家住宅資料館」が建っています。この建物は九鬼藩の殿様の住居ではなく九鬼の名字を拝命していた九鬼藩の家老職であった九鬼隆範が設計しその家族が住んだ...
30日前
広野にある淡路開拓村の一角に「ゴッホの丘」と呼ばれている「アートガーデン」があります。この場所は、夙川で「パポーニ」という喫茶店兼アトリエ(阪神大震災で倒壊)で活動していた洋画家大石輝一が、憧れていたオランダの画家ゴッホが晩年住んでいた南フランス...
09/07
農民にとって米作に欠かせない水の確保は最も重要で死活問題と言えます。その意味で今も武庫川やため池などの水利権は厳しく管理されています。勝手に水を引いて使うことは水泥棒と言われ最も厳しい仕打ちを受けたのです。 さて三田小学校の横に三田御池があり...
09/07
よく切れる刀として名刀「正宗」(まさむね)が有名ですが武庫川が河川改修で現在のように付け替えられて水害が無くなる以前はよく切れる(決壊する)武庫川のある個所が「正宗堤防」と呼ばれていました。その場所は今の郷の音ホールの対面あたりと言われています。...
09/07
歴代三田藩主隆義の正室の墓碑は東京にありましたが明治32年に阪鶴鉄道が通ったのを契機に明治40年隆義の長男である隆輝が心月院に移設しました。心月院の奥にある高台の九鬼隆義の墓碑がある広い敷地に正室の墓碑が並んでいます。 ここには側室の墓碑はな...
09/05
皆さん、三田小学校の校長室の床下を覗いてみたことがありますか。なんと九鬼の殿様が住んでいた江戸時代の陣屋の台所が保存されているのです。どうしても見たい人は三田小学校にお願いしてみてください。校長先生の都合が良ければ許可されるかもしれませんよ。三田...
09/05
現在学校にプールがあるのがあたり前ですが昔は学校にプールがありませんでした。県道黒石線の武庫川の松山堤(今の消防署の所)で三田小学校の生徒は体操の授業として水泳をしていたそうです。そんなに昔のことではありません。生徒たちが楽しそうに川に飛び込んで...
09/05
皆さん、パスカル三田によくお買い物に行かれていると思います。パスカル三田の住所は川除(かわよけ)ですがお隣の兵庫県三田庁舎は天神(てんじん)です。何故パスカル三田は天神ではなく川除なんでしょうか。 住所表示は武庫川の左岸と右岸で区別され川除と...
09/05
今の有馬高校の所には奈良時代には金心寺がありそして戦国時代にはお城がありました。江戸時代になって鳥羽から九鬼久隆が国替えで三田(今の三田小学校)にやってくる以前の話です。有馬高校のテニスコートの辺りにその城の天守があったそうですが今でもテニスコー...
09/01
三田界隈で武庫川に架かる橋は現在は北からお殿橋・三田大橋・車瀬橋・高砂橋・相生橋の5つありますが江戸時代はお殿橋・車瀬橋・新地橋の3つしかなかったのです。お殿橋は九鬼藩のお殿様が息抜きに対岸の福井家にお遊びに行くための専用橋で庶民は通れませんでし...
08/30
三田の西山にあり曹洞宗のお寺である心月院は九鬼藩主の菩提寺としても有名です。4月下旬になると境内のツツジはとても美しく咲きますので必見です。このお寺には白洲次郎・正子夫妻や私立三田博物館を創った九鬼隆一のお墓もあります。 心月院で最も興味深い...
08/30
NHK大河ドラマ「八重の桜」にも登場した「新島襄」は京都に同志社大学を創設した偉人ですが彼が三田に大きな影響を与えたことをご存じでしょうか。アメリカに密航してキリスト教(プロテスタント)を学び宣教師として帰国した新島襄は神戸で布教活動をしていましたが...
08/29
三田の屋敷町(江戸時代は侍町)に「牛くそ坂」という面白い坂があるのを知っていますか。屋敷町には年貢米を納める藩の大蔵がありそこに百姓は年貢米を牛に曳かせて運んでいましたが待ちの時間に牛が糞をするためにこの坂を「牛くそ坂」と呼んだのです。この坂はカ...
08/28
江戸時代から明治はにかけて三田城下では年末に盛大に賑やかに誓文払いが行われていました。その中心地はいまの本町界隈でした。誓文払いの意味はいつも儲けている商人が「今日は儲けません・損をして商売をします」「そのことを誓います」という意味から来ているそ...
08/27
江戸時代の「摂津名所図会」には三田の車瀬橋が蛍の名所として紹介されています。明治の終わり頃に詩人「三好達治」は祖母が後妻として来ていた妙三寺(日蓮宗)に妹と一緒に預けられ5年生まで三田小学校に通いました。彼の詩人としての感性は自然豊かな三田で育ま...
08/26
現在三田で酒つくりをしているのは木器(こうづき)の「岡村酒造」(銘柄・千鳥正宗)だけになったしまいましたが江戸から明治にかけて三田では酒つくりがとても盛んでした。上質なお米と武庫川の伏流水に恵まれたことも一因だと思われます。 明治になって有馬...
08/26
今のしゃべくり漫才は昭和初期「早慶戦」をネタにしたエンタツ・アチャコによって始められたものです。それまでの漫才は音曲を中心としていましたがエンタツ・アチャコは会話に徹する「しゃべくり漫才」の基礎を築きました。そのエンタツは三田広野の医者の家に生ま...
08/21
魚棚(うおんたな)というと明石が有名ですが明治初期の三田の古地図を見ると興味深いことに江戸時代から明治の初期にかけて車瀬橋・本町から妙三寺に抜ける細い路地に魚を売る行商が来ておりその場所は魚棚と呼ばれていたとのことです。 瀬戸内海で取れた魚は...
08/20
飛鳥時代の西暦645年に決行された「大化の改新」は第34代舒明天皇の息子であった中大兄皇子(後の天智天皇)と家来の中臣鎌足によって決行されたと伝えられている。 中大兄皇子の父である第34代舒明天皇は体が弱く有馬温泉に長逗留していたが中大兄皇子...
08/20
1万円札そして「学問のすすめ」などで有名な福沢諭吉は九州中津藩の大阪蔵屋敷で生まれました。成長してから大阪の北浜で緒方洪庵が設立した「適塾」で主に蘭学を学び塾頭まで上り詰めました。この福沢諭吉が三田と深く関係していたことをご存じでしょうか。三田の...
08/13
第9話で触れましたが江戸時代になって最初の三田藩主は鳥羽からお国替えでやってきた九鬼久隆でした。その後江戸時代が終焉を迎えるまで13人のお殿様が三田藩を治めてきましたが何と13人の内7人が養子なんですよ。ということは実子は6人しかいないということ...
08/09
三田の桑原地区にある欣勝寺(きんしょうじ)には面白い民話が伝えられています。その昔雷の子供がいたずらをして欣勝寺の井戸に落ちました。住職が桑原地区には雷を落とさないという約束を取りつけて助けてあげたそうです。それから桑原地区には雷は落ちなくなり落...
08/09
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