今のしゃべくり漫才は昭和初期「早慶戦」をネタにしたエンタツ・アチャコによって始められたものです。それまでの漫才は音曲を中心としていましたがエンタツ・アチャコは会話に徹する「しゃべくり漫才」の基礎を築きました。そのエンタツは三田広野の医者の家に生ま...
08/21
魚棚(うおんたな)というと明石が有名ですが明治初期の三田の古地図を見ると興味深いことに江戸時代から明治の初期にかけて車瀬橋・本町から妙三寺に抜ける細い路地に魚を売る行商が来ておりその場所は魚棚と呼ばれていたとのことです。 瀬戸内海で取れた魚は...
08/20
飛鳥時代の西暦645年に決行された「大化の改新」は第34代舒明天皇の息子であった中大兄皇子(後の天智天皇)と家来の中臣鎌足によって決行されたと伝えられている。 中大兄皇子の父である第34代舒明天皇は体が弱く有馬温泉に長逗留していたが中大兄皇子...
08/20
1万円札そして「学問のすすめ」などで有名な福沢諭吉は九州中津藩の大阪蔵屋敷で生まれました。成長してから大阪の北浜で緒方洪庵が設立した「適塾」で主に蘭学を学び塾頭まで上り詰めました。この福沢諭吉が三田と深く関係していたことをご存じでしょうか。三田の...
08/13
第9話で触れましたが江戸時代になって最初の三田藩主は鳥羽からお国替えでやってきた九鬼久隆でした。その後江戸時代が終焉を迎えるまで13人のお殿様が三田藩を治めてきましたが何と13人の内7人が養子なんですよ。ということは実子は6人しかいないということ...
08/09
三田の桑原地区にある欣勝寺(きんしょうじ)には面白い民話が伝えられています。その昔雷の子供がいたずらをして欣勝寺の井戸に落ちました。住職が桑原地区には雷を落とさないという約束を取りつけて助けてあげたそうです。それから桑原地区には雷は落ちなくなり落...
08/09
三田焼は江戸時代の中頃から盛んになりました。特に三田青磁は中国のものにも劣らない素晴らしい焼き物と言われています。三田焼の製造は昭和の初期まで続きました。三輪明神窯史跡園は兵庫県の指定文化財となり平成15年に開園されましたが昭和23年に発掘された...
08/09
有馬温泉で生まれたと言われる有間皇子(ありまのみこ)の父は第36代孝徳天皇であり母は今の西宮市山口町の豪族阿倍氏の娘小足姫(おたらしひめ)であった。有間皇子は天皇になれる立場にあったが従兄であった舒明天皇の息子中大兄皇子(後の天智天皇)との政争に...
08/07
屋敷町の旧九鬼家住宅資料館の前にあった有馬郡役所の建物を活用して大正3年に九鬼隆一が私立の三田博物館を創設しました。日本初の私立の博物館として画期的なものと言えます。 三田藩士であった九鬼隆一が東京に進出して福沢諭吉の世話になり慶応大学を卒業...
08/07
今年の夏は例年よりも暑くクーラーが休まることがありませんね。あたり前のように使っている三田市の電気はどこから送られてきているのか考えたことがありますか。三田市では遠く関電高浜原発(福井県)と関電奥多々良木(おくたたらぎ)水力発電所(兵庫県)で発電...
08/07
JR福知山線の複線電化のルートについては三田で開発が進んでいたニュータウンの利便のために元々の福知山線のルートではなく何とニュータウンを通るルートが検討されてきた歴史があるそうです。しかしそうなると三田駅前が廃れる懸念から反対運動が起こり今のルート...
08/03
明治時代の有馬郡から昭和に入り三田市になるまでには大きな動きがありました。戦後有馬郡から神戸市に編入されたのは有馬町・大沢村(おおぞう)・有野村・八多村・道場村・長尾村の6か所で更に西宮市に編入されたのは塩瀬村・山口村の2か所です。そして有馬郡で...
08/03
三田に水道が設置されたのは昭和12年のことです。昭和12年三田では有馬高校近くに「古城(ふるしろ)浄水場」が完成しました。この場所に戦国時代お城があったことが名前の由来です。その後三田市内の浄水場は高平と母子の3か所に設置されて今日に至っています...
07/30
三田市役所から三輪交差点を通って城山公園。友が丘へ行く道が整備されるまでは三輪神社階段の右側に「花山院」の道標がある旧街道が主な生活道路でした。この道は今の三輪明神史跡園の前を通って上野が原(三田ゴルフ場の裏側)に出るのですがこの道を「木炭バス」...
07/30
車を利用する人はいつも国道176号線にお世話になっていると思います。昭和28年に完成した176号線は京都の宮津から大阪まで通っています。この176号線は昭和45年に三田駅前。三輪神社参道を通らないバイパスが完成しとても便利になりました。 しか...
07/30
奈良時代の高僧「行基菩薩」は奈良東大寺の再興に貢献あったことで知られていますが彼は三田でも大きな功績を残していることをご存じでしょうか。彼は僧というよりは土木のブルドーザーともいわれ多くの仲間とともに各地の街づくりに貢献しました。三田では武庫川の...
07/23
第13話で説明した青野ダムは兵庫県の管轄ですが平成3年に完成した大川瀬ダムは国が管轄しています。大川瀬ダムは武庫川水系ではなく加古川水系であり東条川を経由して加古川に流れ込んでいます。篠山の川代ダムから水管で送られてきた水が大川瀬ダムに貯水され主...
07/17
著名な洋画家小磯良平のルーツが三田にあることをご存じでしょうか。小磯良平は三田藩士岸上角次の孫、岸上良平として明治36年に神戸に生まれました。小磯吉人(大日本製薬社長)とその妻英子に子供がいなかったこともあり養子となりましたが、英子は小寺謙吉の姉...
07/17
江戸時代日本の地図作成に尽力した伊能忠敬が三田に2度訪れていることをご存じでしょうか。伊能忠敬(1745-1818 73歳で没)は幕府の使命で日本地図作成に大きな功績があった偉人です。彼は測量を55歳からまず蝦夷地から始め、71歳までの16年間、...
07/17
金閣寺は昭和25年に金閣寺の美しさを妬んだ青年僧の放火により焼失しましたので今の金閣寺はその後建て替えられたものであることをご存じでしょうか。三田ゆかりの洋画家「大石輝一」(三田の淡路開拓村でアートガーデンを造った人)は昭和23年、54歳の時に金...
07/14
東京都町田市に晩年白洲次郎・正子が暮らしていた武相荘が今も静かに佇んでいます。白洲次郎は祖父の白洲退蔵が三田藩の家老職を務めていた三田ゆかりの人です。生まれは芦屋ですが英国のケンブリッジ大学で学び本場の英語とイギリス紳士術を身に付けました。太平洋...
07/09
明治2年に三田で数千人という大規模な百姓一揆が起こりました。冷害のために例年通りお米が取れなくても納める年貢米は変わらないことに対する三田藩への抗議でした。 結果的に抗議は受け入れられ年貢米は半減となりまたが首謀者である下田中の仲総左衛門は百...
07/05
今から36年前の昭和63年に兵庫県により武庫川の支流である「青野川」に青野ダム(千丈寺湖)が完成しました。三田は昔から洪水と渇水に悩まされてきましたが青野ダムが完成したことにより武庫川の水量調整が可能となりこれらの悩みは解消したことは画期的なこと...
07/05
明治に入り多くの三田藩士が神戸に進出しましたが小寺謙吉は明治10年に小寺泰次郎の長男として神戸の相楽園(蘇鉄園ともいう)に生まれました。小寺謙吉は海外留学の経験も豊富であり明治41年には31歳の若さで衆議院議員に当選し明治45年には故郷に念...
07/01
明治32年に三田に私鉄の阪鶴(はんかく)鉄道が通るまで三田は物流や人の移動が大きな課題でした。そこで武庫川の水路を活用できないかと考えた地元の有力者がいました。そして明治7年に篠山から三田まで武庫川を利用した船便が実現しました。篠山から三田の桜の...
06/30
三田の屋敷町で生まれた三田藩士鈴木清・沢茂吉らが中心となって明治13年に北海道開拓会社「赤心社」が神戸栄町に設立されました。現地は現在の北海道浦河郡浦河町ですが襟裳岬が近くで競走馬育成の場所としても有名なところです。 現地責任者として沢茂吉が...
06/30
徳川幕府3代将軍徳川家光のとき鳥羽にいた九鬼水軍が三田に国替えとなりました。なぜ海の戦いを得意とする水軍が山の三田に来ることになったのでしょうか。 伊勢の国・5万6千石の鳥羽城主九鬼守隆(もりたか)は後継者として5男の久隆(ひさたか)を指名し...
06/29
三田の広野に淡路開拓村があります。淡路大池の傍に淡路風車(かぜ)の丘という公共施設がありましたが民間に売却され令和6年春からレストランに変貌しています。 さて何故三田に淡路という名前が残っているのでしょうか。 昭和16年に淡路島五色村から...
06/27
三田小学校の正門から入ってすぐ右側に凛としてそびえている大きなヒマラヤ杉に気が付いていますか。昭和13年に三田小学校高等科を卒業された三田出身の中西定雄さんは太平洋戦争に出兵し昭和19年に南方のサイパン島で戦死されましたが彼が出兵前に平和を願って...
06/27
三田市内を車で走っていると現在の住所には存在しない名前の道路標識が目につきますよね。石名 赤坂 松山堤 嫁が淵・・・などそして昔の中央公民館(現在のさんだ市民センター)前の交差点には「京口」という標識があります。京口ってなんでしょうか。この場所は...
06/14
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